惑星


惑星には、宇宙のあずかり知らぬしきたりがある。

人々はいつも惑っていて、そのことを認められずに、
いつも物事が終ってからでさえ、何も気づくことはな
い。そして何の予感すら抱かないのだ。本当は地は、
あらゆる人々の後悔と恥辱にまみれた記憶で埋めつく
されていて、その間を古い新聞紙が乾いた風に吹かれ
て漂っているのだが、人々が見るのはただの現象でし
かない。そしてその、ただの紙切れに過ぎないものが
木の根元か民家の塀などにつかまって止まると、それ
で現象は終ったとばかりに、人々は眼をそらしてその
日の考えに戻るのだが、それで記憶が慰撫されるわけ
でもなければ、迷っている者の道が指し示されるわけ
でもない。惑いは変らずにあって、人々は自らの内側
にあるそれから眼をそらしつづけているだけなのだ。

人々はいつも惑っていて、たとえば時間という限られ
た区切りのなかでしか、人々は考えを進められない。
それは住む星も違えばまた違って当然のものであるの
だが、人々は時間を神のように崇めて、それに逆らう
者を罰しようとさえする。日が上って、また落ちて、
暗くなれば星が輝いて、そのなかでゆったりと息をつ
く。そんな時間の受け取り方を、この地の人々はしよ
うとはしない。そう、時間とは追い立てられるもので
はなく、受け取るものなのだ。私たちはそれぞれに受
け取った時間のなかで生きているが、人々は時間が不
変に流れていると思うだけで、自らが時間を受け取っ
たことを忘れている。そのなかでなら、どんないのち
の使い方をしても構わないのだが、人々は地のしきた
りに縛られて、受け取った時間をすり減らしている。

人々はいつも惑っていて、そのなかにいるということ
が、彼等を盲目にさせる。人々が空を見上げることは
ほとんどないから、空はあってもなきがごとしだ。た
だこの地だけが人々にとっての真実であり、狂信的な
異教徒のように、地のみを信仰することが人々にのこ
された唯一の道である。だが、見上げなくとも空が頭
上にあるのは事実なので、空と地の間で人々は引き裂
かれ、惑わざるをえない。そうした惑いをあらわにす
るかすかな目醒めの者を、愚かにも人々は嘲笑し叱責
すらするのだが、それもこれもみな、地のしきたりも
含めて、空とその奥につながる宇宙は無関心だ。人々
は惑いながら、惑うことが罪であるかのようなおそれ
とともに、この地の、整えられた道を行くしかない。

惑星には、宇宙のあずかり知らぬしきたりがある。そ
のなかでさえ、心を求める者を敬え。惑いは暗く頼り
ないものとしてあるが、それらもまた恒常的な光によ
って照らされ、それを反射して輝いている。あらゆる
後悔と、遂げられなかった思い、果たされなかった約
束、それらに思いをはせながら、惑いはいまも漂って
いる。遠い空の彼方から彗星のような冷たく乾いたも
のが、長い周期を経て人々の視界をよぎる時、どこか
から忘れるな、思い出せ、という声が聞こえてきて、
私たちは立ち止まって眼を閉じる。惑星は惑いのなか
にあってこそ、こんなにも青く、こんなにも美しい。


(二〇一六年二月執筆)


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