1967年 (昭和42年) |
1月23日・神奈川県小田原市に乙部家の長男(第一子)として生まれる。両親ともに東京出身。父親は終戦前後の一時期旧満州に居住していた。父親の職場があった神奈川県中郡二宮町に住んでいたが、出産のみ近隣の小田原市で行なった。 |
1968年 (昭和43年) 1歳 |
神奈川県茅ヶ崎市に転居。 |
1969年 (昭和44年) 2歳 |
茅ヶ崎市内の浜見平保育園に通い始める。 |
1970年 (昭和45年) 3歳 |
妹生まれる。 |
1971年 (昭和46年) 4歳 |
神奈川県中郡二宮町に再転居。町内の梅花保育園に転園。 |
1973年 (昭和48年) 6歳 |
4月・二宮町立一色小学校入学。 |
1976年 (昭和51年) 9歳 |
この時期から学校帰りに近所の絵画教室に通い始める。水彩よりも油彩の方が得意だった。結局絵画は小学校の時のみで、以後はまったく描いていない。 |
1978年 (昭和53年) 11歳 |
小学校の文集にSF短篇のようなものを書く。 |
1979年 (昭和54年) 12歳 |
3月・一色小学校卒業。 4月・二宮町立二宮中学校入学。 |
1980年 (昭和55年) 13歳 |
4月・学区の関係で、新設された二宮町立二宮西中学校に転校。 |
1982年 (昭和57年) 15歳 |
1月・当時つけていた日記に初めて詩のようなものを書き始める。 3月・二宮西中学校卒業。 4月・神奈川県立二宮高校入学。 12月・神奈川県秦野市に転居。同世代の少年たちの例にもれず、国内外のロックポップス等をよく聴いていた。詩のようなものを書き夢想ぎみだったところが、他の少年たちとは異なっていた。 |
1983年 (昭和58年) 16歳 |
後に振り返れば、高校時代でもっとも楽しかった一年。 |
1984年 (昭和59年) 17歳 |
後に振り返れば、高校時代でもっともつらかった一年。 |
1985年 (昭和60年) 18歳 |
3月・二宮高校卒業。大学入試に失敗し、一年間の浪人生活を送る。この年、一時詩作中断。 |
1986年 (昭和61年) 19歳 |
4月・再び大学入試に失敗し、次善策として東京写真専門学校音響芸術科に入学する。一年ぶりに詩作を再開する。同時に小説も書き始める。 |
1988年 (昭和63年) 21歳 |
3月・東京写真専門学校音響芸術科卒業。浪人時代からの3年間は人生の執行猶予の時期であったと、後に思い至ることになる。 |
1989年 (平成元年) 22歳 |
自らの詩作に対する態度を改め、以降より意識的に詩作に取り組むようになる。この年から1994年あたりまでに書いた詩を、自らの中で「初期詩篇」として位置づけている。 |
1990年 (平成3年) 23歳 |
忘れがたい恋愛事件が勃発。以後、心中に暗い影を落とすことになる。 |
1991年 (平成3年) 24歳 |
市販の縦書きノートに清書した手作り詩集『逆回りの螺旋』をつくる。 |
1992年 (平成4年) 25歳 |
この頃になってやっと日本の同時代の現代詩を読み始める。二冊目の手作り詩集『僕の鳥は歌を憶えた』をつくる。 |
1993年 (平成5年) 26歳 |
三冊目の手作り詩集『十二月の子供たち』をつくる。以上三冊の手作り詩集によって、「初期詩篇」の時期を通過。 |
1994年 (平成6年) 27歳 |
10月・詩「橋 ―あるいは晩夏の目醒め」を書き上げる。本作によって、詩作の大きな転換点を迎えたことを自覚し、「初期」の段階から脱皮。 12月・妹に長男(第一子)誕生。 |
1995年 (平成7年) 28歳 |
8月・関東から東北、北海道にかけてヒッチハイクで旅行。 |
1996年 (平成8年) 29歳 |
5月・妹に次男誕生。 8月・ヒッチハイクで北海道一周旅行。 |
1997年 (平成9年) 30歳 |
8月・3年連続のヒッチハイク旅行。今度は四国一周。この年、同人誌を作ろうと夢想するが、他に詩を書く者が身近にいないために断念する。長篇小説「星と落葉」を書き始める。 |
1998年 (平成10年) 31歳 |
連作詩「夜、幽霊がすべっていった……」を書き始める。その後断続的に書きついでいくことになる「幽霊」ものの詩の幕開け。長篇小説「星と落葉」脱稿。 10月・父親が脳梗塞に倒れる。 |
1999年 (平成11年) 32歳 |
12月・後の第一詩集収録作品の中でももっとも古い詩「短い叫びへと至る長い道」を書く。 |
2000年 (平成12年) 33歳 |
1月・詩「『迷子』」を書く。その後、一時的な精神不安定状態に陥り、詩作不調。約半年間通院治療する。長篇小説「勇者の家」を書き始めるが、前記の理由により遅々として進まず。 |
2001年 (平成13年) 34歳 |
この年、詩作好調。後に刊行された第一詩集にはこの年以降に書いた詩が主に収められることになる。 |
2002年 (平成14年) 35歳 |
長篇小説「勇者の家」やっと書き上げる。 |
2003年 (平成15年) 36歳 |
この時期、実家と同じ市内ではあったが、一時的に親元を離れてひとり暮らしをしていた。 |
2004年 (平成16年) 37歳 |
3月・妹死去。大きな衝撃を受ける。それにともなって、実家に呼び戻される。この出来事が後の詩作に大きな影響を与え、直接または間接的に妹のことをテーマにした詩をいくつも書くようになる。この年は第一詩集に収められた「墓地の壁」「駈けていった」等を書く。 8月・二人の甥とともに熊本旅行に出かける。 9月・webサイト『21世紀のモノクローム』開設。 |
2005年 (平成17年) 38歳 |
1月・母親が病気で倒れる。妹死去後の家庭のごたごたがつづく。web上の投稿サイト『現代詩フォーラム』で作品を発表するようになる。 2月・後に友人となる服部剛に誘われて詩学社の合評会に参加。詩関連のイベントに行くようになる。 3月・藤沢市内で行なわれた朗読イベントで難波保明氏と初めて会う。その後、難波氏の紹介で村野美優氏ら何人かの詩人と知り合う。 4月・初めて自作詩を人前で朗読。 10月・難波氏から詩書出版のミッドナイトプレスを紹介され、詩集を出す決意を固める。 12月・ミッドナイトプレスの岡田幸文氏と会い、詩集製作について話し合う。この年はこれまででもっとも多くの詩を書いた。 |
2006年 (平成18年) 39歳 |
2月・webサイト『poenique』の「ぽえ。」で「古代人のヒッチハイク」が入選(杉本真維子氏選)。 3月・「ぽえ。」で「そして海は濁っていった」が佳作(杉本真維子氏選)。横浜詩人会入会。 5月・第一詩集『迷子 その他の道』(ミッドナイトプレス)刊行。『現代詩手帖』8月号(杉本真維子氏),『短歌現代』8月号(和合亮一氏),『神奈川新聞』7月14日(金井雄二氏)に書評が載る。横浜詩人会賞の最終候補6冊に残るが落選。 12月・同人詩誌『反射熱』第1号刊行。詩「反射熱」発表。 |
2007年 (平成19年) 40歳 |
6月・『反射熱』第2号刊行。詩「あやとり」「三月の死者」、評論「それぞれの体験、存在しない世界の輪郭を撫でる」発表。 7月・『横浜詩人会通信』No.263にエッセイ「モノクロームの記憶」発表。 9月・webサイト『蘭の会』に「てがみ」掲載。 |
2008年 (平成20年) 41歳 |
2月・webサイト『poenique』の「4wheels」でネット詩の時評を担当する(4ヶ月に一回)。第1回は「『ネット詩』概論」。同人誌『反射熱』のwebサイトを立ち上げる。 4月・父親が糖尿のため右脚を切断。詩「四月」にこの時のことを書く。 5月・『keder0d』vol.2に「淋しい解放」発表。『反射熱』第3号刊行。詩「存在する猫」他発表。 6月・webサイト『poenique』にネット詩時評第2回「ポエムの海の中で」発表。 8月30日・『神奈川新聞』に詩「妹の食卓」発表。 10月・webサイト『poenique』にネット詩時評第3回「やわらかい自分」発表。 12月・『反射熱』第4号刊行。詩「拾遺」、散文「『幽霊』の詩学1 道端に幽霊が立っていること」掲載。この年から戸谷崗氏主宰の同人誌『gaga』に参加。『反射熱』とかけもちする。参加後、年内の刊行はなし。 |
2009年 (平成21年) 42歳 |
2月・webサイト『poenique』にネット詩の時評第4回「長い言葉に巻かれる」発表。 4月・『gaga』No.7に「周囲」「生乾きの霊」を発表。 6月・webサイト『poenique』にネット詩時評第5回「混合物としての詩」発表。 7月・フリーペーパー『余熱』(『反射熱』第13回東京ポエケット臨時号)に「橋」を発表。 10月・webサイト『poenique』にネット詩時評第6回「さりげない詩」発表。 11月・ミッドナイトプレスのサイトにエッセイ「淋しさが往来する」発表。『反射熱』第5号刊行。詩「原罪」、散文「『幽霊』の詩学2 流れるものと淀むもの」「レッツ・キル・ミュージック 三角みづ紀『オウバアキル』書評」掲載。 |
2010年 (平成22年) 43歳 |
1月・『gaga』No.8に「過去」を発表。 2月・webサイト『poenique』にネット詩の時評第7回「言葉たちはパレードをつづける」発表。 3月・『横浜詩人会通信』No.274にエッセイ「沈黙が往還する」を発表。 9月・『gaga』No.9に「包含」を発表。 12月・『反射熱』第6号刊行。詩「忘れる川」、散文「拾遺という思想」「場所と時間の狭間で 村野美優『草地の時間』について」「『幽霊』の詩学3 無い形、うっすらとした」発表。 |
2011年 (平成23年) 44歳 |
4月・父死去。 6月19日・『神奈川新聞』に詩「Destination Unknown」を発表。 9月・『反射熱』第7号刊行。詩「四月」「雨の納骨」、散文「無の中に密集する混沌 ふるる『空き箱』について」「『幽霊』の詩学4 ぼんやりと、ただぼんやりと」発表。 10月・『gaga』No.10に「箱庭」を発表。『湘の会通信』No.4に散文「ロスト&ファウンド」発表。 12月・『湘の会通信』No.5に詩「遠景」を発表。 |
2012年 (平成24年) 45歳 |
6月・母が癌の手術。 8月・『詩的現代』第2次に参加。第2号に詩「詠み人知らず」を発表。 11月・『詩的現代』第3号に詩「風葬」を発表。 12月・6年半ぶりの第2詩集『生の拾遺』(七月堂)刊行。『反射熱』第8号刊行。詩「街角」、散文「遠くを見ている人のような眼で」「呆然とする時」発表。『gaga』No.11に「その先へ、その後で」を発表。 |
2013年 (平成25年) 46歳 |
1月・『詩的現代』第4号に詩「さらされる」を発表。 4月14日・『神奈川新聞』に詩「春からの旅」を発表。 5月・『詩的現代』第5号に詩「北枕」、散文「物語から滲み出るもの ――樋口武二『異譚集』について」を発表。 8月・『詩的現代』第6号に詩「おそい夜」「風葬論」を発表。 9月・『gaga』No.12に詩「鳥瞰」を発表。 12月・『詩的現代』第7号に詩「解かれるもの」を発表。 この年、前年末に刊行された詩集『生の拾遺』が詩壇内部でほとんど無反応だったことにひどく落ちこむ。難波保明氏が激賞し、金井雄二氏が横浜詩人会賞の選考で「特筆」するなど、一部の詩人からの好意的な反応はあったものの、中央の詩壇では黙殺(発見すらされていない?)状態であった。金井氏の推薦で福田正夫賞の候補に推されるが、受賞はならず。 |
2014年 (平成26年) 47歳 |
1月・『反射熱』第9号刊行。詩「完璧な日」、散文「緑道と林と、その先に広がる…」「静かになってゆく日々 ――難波保明『日々の稜線』について」「透徹した視線から生まれる詩 ――宮岡絵美『鳥の意思、それは静かに』について」発表。 3月・『詩的現代』第8号に詩「風が止んだ後で」を発表。 3月30日・『神奈川新聞』に詩「交差点」を発表。 6月・『詩的現代』第9号に詩「空中」を発表。 7月・『gaga』No.13に詩「遺蹟」を発表。 12月・『詩的現代』第11号に詩「悲鳴」を発表。『gaga』No.14に詩「百冊の読まれなかった本」を発表。 |
2015年 (平成27年) 48歳 |
1月・『反射熱』第10号刊行。詩「三月のペルソナ」、散文「十年前のあの時から十年後の現在へ」「遠浅の…」発表。 3月・『詩的現代』第12号に詩「夕凪」「黄昏」を発表。『現代詩手帖』4月号「詩誌月評」欄で北爪満喜氏が「三月のペルソナ」を取り上げる。 6月・『詩的現代』第13号に詩「現実」「光跡」を発表。 9月・『詩的現代』第14号に詩「傾く日」「運河」を発表。 10月・『gaga』No.15に詩「はじまりの歌」を発表。 12月・『詩的現代』第15号に詩「尽きるまで」「肋骨」を発表。 |
2016年 (平成28年) 49歳 |
3月・『詩的現代』第16号に詩「近づいてくるもの」「湧出」を発表。 6月・『詩的現代』第17号に詩「夜景」「春眠」を発表。 8月・『gaga』No.16に詩「記憶」を発表。 9月・『詩的現代』第18号に詩「風化」、散文「近代の終りと現代の始まり、そして僕の詩の始まり」を発表。 12月・『反射熱詩集2016』刊行。詩「朝の孤独」「風に乗る」「静物」「点綴」、散文「近代という目醒め、あるいは『病んでゐる』犬」「幽霊小論」を発表。 『詩的現代』第19号に詩「風紋」、散文「存在の根源への視線 ――高見順の詩について」を発表 |
2017年 (平成29年) 50歳 |
3月・『詩的現代』第20号に詩「初冬」を発表。 5月・『gaga』No.17に詩「刑」を発表。 6月・『詩的現代』第21号に詩「放逐」「無垢」を発表。 9月・『詩的現代』第22号に詩「平原」を発表。 11月・『反射熱』第11号刊行。詩「春、雨中」「変化」、散文「短詩とは何か?」「物語と歌」「夜の逃走」を発表。 12月・『詩的現代』第23号に詩「秋を知る」を発表。 |
2018年 (平成30年) 51歳 |
3月・『詩的現代』第24号に詩「揺籠」を発表。 |